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子育てのイメージ

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何でも取りかかる前にはイメージもしくはシミュレーションのようなことをすることがあるだろう。そんな中、いきなり本番に取り組まなくてはならないのが子育てである。

 自分の両親・祖父母からの伝承、様々なメディアからの情報、自分の経験などを総動員してイメージしながら、実践をする。その上で、CMに出てくるような、子どもにとって、妻にとって「いい父親」「かっこいい父親」でありたいと誰もが願っていると思う。しかし、現実の子育てでは、その十分の一でも演じることができていたら上出来ではないだろうか。

 まず、自分の趣味や好きなことを子どもがそのまま好きになるとは限らないということ。よく「一緒に遊べたらいいな」とか、「好きなことをして一緒に時間を過ごせたらいいな」のようなことを呑気に、自分勝手にイメージして、期待に胸を震わせながらその時を待つ。しかし、待てど暮らせど、お膳立てをしておいても全く興味を示さない…あるいはすぐ飽きてしまう…喜びや楽しみを共有できない…自分の思い通りにいかないということで一つため息をつく。

 次に、自分が得意だったことがあまり受け継がれていないということが判明したとき。子どもは自分にできないことがあるということが本当にいやで、落ち込んだり怒ったりしている。親もできないということに腹を立て、落ち込んだり怒ったりしてしまう。こんなに残念なことはない。

 その他にも、日常生活を送る中で、片付けなどのできていないことばかりに目が行き、そのことに対して小言を言う。これも相互にいやな気持ちになる。

 しかし、不愉快なことばかりでもない。子どもの無邪気さに心を癒やされる事が多々ある。寝転がって延々と読書をしていたり(実は、いつも親がしていること)、好きな食べ物が似ていて、とてもおいしそうに、満足そうに食べているところなどもほのぼのとする。

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「ああ、そうだ。」一生懸命何かに取り組んでいたりとか、そういう所を見たい気持ちはあるけれど、幸せそうにしているところを見ているだけで、自分も幸せな気持ちになることがあるということ。そしてそういう瞬間になんとも言えない充実感を感じているということに気がついた。そんな気持ちになれるようになったのは、犬を飼いだしてからかもしれない。「何かができるとか、できるようになる。」そういうことにばかり目を向けるのではなく、そこにいるそのままの状態のものに、不平不満を言うことがあっても、あきらめることなく投げ出すことなく、ただ単純に一緒にいるということに価値を見出すことができるようになった。一緒に散歩して、ご飯を食べて、遊んで、見守る。実はこれが子育てをする上では重要なことなのかもしれない。絶対にやらなければならないことはあまりなく、ただ、やるべきことを当たり前のようにやっていく中で、生活や人生に余裕ができてくるものなのかもしれない。その時、何を見ているか、何を考えているかによって限られた人生、その時間の過ごし方が大きく変わってくるものなのだ。そのことに気づくことができたのが、自分にとって、子育てをしてきた中で一番大事なことだと言えるだろう。子どもに過剰に干渉したり、期待するのは自分自身を責め苦しむことにつながる。なぜなら、過去の自分のことを知っているのは、自分自身であるはずなのに、そのことは棚に上げ、理想の自分を要求してしまうから。「自分はこうではなかった」「なんでこんなことができないんだ」というのは、自分自身に問いかけていることである。自分が叱責し、批判しているのは過去の自分であるからこそ、余計に腹も立つというもの。男は永遠の五歳児だという話を聞いたことがある。それが親になるのだから大変なことである。家族を持ち、親になり、一丁前に難しい顔をして社会人としてふるまっているのである。我が子を見て、「こんなにひどかったかな」と妻と語り合うこともあるが、「そんなにひどかった」のである。「どうしてこんなことができないんだ」と叱責することもあるが、「そんなこともできなかった」のである。

 たまにはゆっくり深呼吸でもしながら、散歩でもしてみてはどうだろうか?子ども(人間)のことを理解するために、子ども(人間)以外のものに積極的に目を向けていくのもいいのかもしれない。

コラム作成者:バードマン

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